聖武天皇の次は考謙天皇です。
考謙天皇は聖武と光明の皇女。
考謙天皇の時代に鑑真が来日して律宗を伝えました(754年)。
考謙天皇の時に政治の実権を握ったのは「藤原仲麻呂(恵美押勝)」でした。
藤原仲麻呂は光明皇后の信頼を得て、新設された紫微中台の長官に任じられました。
事件としては橘奈良麻呂の変がおこっています。
橘奈良麻呂の変とは何か調べておいてください。
また、718年に制定された養老律令が、
757年になって施行されたことも覚えておいてください。
考謙天皇の次は淳仁天皇です。
淳仁天皇は藤原仲麻呂に擁立されて即位しました。
藤原仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝(おうみおしかつ)の名を賜り、
太師(太政大臣)となり全盛期を迎えます。
しかし、道鏡が台頭してくると、764年恵美押勝の乱がおこり、
政治の実権は道鏡へと移っていきます。
恵美押勝の乱とはどのような事件か調べて書き加えておいてください。
淳仁天皇の次に即位した称徳天皇は考謙天皇が再び即位したものです。
このような即位の形態のことを「重○」と言いますが、それを調べておいてください。
769年宇佐八幡宮信託事件がおきています。
どのような事件だったのか調べておいてください。
道鏡が失脚し、光仁天皇の時代になると、
藤原永手、藤原百川が政治の実権を握ることになります。
永手・百川は宇合の子で、光仁天皇の信頼厚く参議となります。
772年井上廃后事件とは何か調べておいてください。
そして、光仁天皇時代に、776年、出羽国志波村の蝦夷反乱、
780年、蝦夷の首長である伊治砦麻呂(これはるのあざまろ)の乱がおこっています。
これをきっかけとして、次の桓武天皇時代の大規模な蝦夷討伐がおきてきます。
この考謙天皇から光仁天皇までは短い間に目まぐるしく天皇と政治の実権者が変わっています。
混乱しないよう整理して、その実権者の変遷を、流れをしっかり覚えておいてください。
前6ページから政治の実権者が、長屋王、藤原四卿、橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡、藤原永手・百川、と6人も変わっています。
このあたりの政治動乱は出題される傾向も高いのできちんと把握して、セットで覚えておくと良いでしょう。
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