8 桓武~平城

桓武天皇時代になると、藤原良継・百川が政治の実権者となります。

784年、藤原種継らの指導により長岡京へ遷都しますが、

翌785年、藤原種継は暗殺されてしまいます。

藤原種継は宇合の子。

造長岡官使の種継が暗殺されたため造営は進まなくなります。


792年、健児の制とはどのようなものであったのか?

その目的とは何か調べておいてください。


この桓武天皇時代には「平安京遷都」が行なわれ、

ここから平安時代に入っていくわけですが、

この788~805年までの約15年間、

断続的に大規模な蝦夷討伐が行なわれます。


788年、紀古佐美による第一次蝦夷討伐

791~795年、大伴弟麻呂による第二次蝦夷討伐

797年、坂上田村麻呂による第三次蝦夷討伐

802年、胆沢城を築く

803年、志波城を築く

805年、藤原緒嗣の議により第四次蝦夷討伐の中止


これが蝦夷討伐の大きな流れになります。

この部分は出題率も高いのでしっかり覚えておきましょう。


政策的には「勘解由使」を設置したことが重要事項です。

勘解由使とは何か? その目的とは何か?

問われる問題が頻出されますので必ず調べておいてください。


さらにこの時期、


805年、最澄が天台宗

806年、空海が真言宗


を開いています。

年号は覚えておくことをお勧めします。



受験・日本史勉強ノート

日本史試験勉強を応援します