9 平城~淳和

続いて桓武天皇の皇子である平城天皇が即位します。

次ぎに三筆の一人として知られる嵯峨天皇が即位します。

嵯峨天皇時代の810年、薬子の変が起きます。

薬子は平城上皇側近で、上皇と嵯峨天皇の不和を利用し、

上皇の復位と平城京への遷都を企てましたが失敗、薬子は自害しました。


嵯峨天皇時代、2つの大きな意味をもつ役所が設置されました。


一つは、810年、蔵人所の設置です。

蔵人所とは、天皇側近として機密文書や訴訟を扱う役所です。

蔵人頭は藤原冬嗣と臣勢野足です。


二つは、811~816年、検非違使の設置です。

検非違使は京中の治安維持にあたりました。

やがて、弾正台・六衛府・刑部府・京職の政務を執り、

都の警察裁判権を司る要職となりました。


この2つの役職の設置は重要事項なので、よく調べておきましょう。


820年、藤原冬嗣らによって「弘仁格」「弘仁式」が編集されました。

三代格式である「弘仁格式」「貞観格式」「延喜格式」は覚えておいてください。


淳和天皇時代には、842年、承和の変がおきます。

詳細に関しては次ページに記載します。

ちなみに、藤原冬嗣は内麻呂の子で、北家興隆の基をつくりました。



問題1 検非違使とは何か?



問題2 蔵人所とは何か?



問題3 三代格式を答えなさい。また、三筆を全員答えなさい。



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