25 足利義政~義尚2019.05.28 10:26義政の時代になり、幕府政治が大きく退廃すると、各地で紛争が多発してきます。関東では鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏&義政の弟である足利政知(堀河公方)が対立します。守護大名同士も斯波氏、畠山氏、山名氏、細川氏などがそれぞれ対立し始めます。将軍家でも、守護大名の細川勝元と山名持豊を...
24 足利義持~義政2019.05.28 10:22足利義満の時に「勘合貿易」が開始されました。勘合貿易は1404年に始まり、1411~31年の間は中断されますが、1432年、義教の時代に再開されます。しかし、8代足利義政の時代になると幕府衰退の足音が聞こえてきます。その一因となったのが、義政の妻である「日野富子」の政治介入でした...
23 足利義満~義持2019.05.28 10:191392年、南北朝が統一されます。ここに室町幕府が完成したと言えます。1378年、足利義間満が「花の御所」を造営して栄華を誇りました。室町幕府は足利尊氏を初代に、2代義詮、3代義満、4代義持、5代義量、6代義教、7代義勝、8代義政、9代義尚、10代義植、11代義澄、12代義晴、1...
22 足利尊氏~義満2019.05.28 10:16足利尊氏が擁立した光明天皇側の北朝と、後醍醐天皇側の南朝とで、政権が二分した状態となります。南北朝時代です。しかし、北朝側の足利氏が着実に権力の基盤を固めていきます。1339年には後醍醐天皇が死去し、足利氏の力が強まっていきます。やがて足利尊氏は弟の足利直義とも対立し、直義を毒殺...
20 後醍醐2019.05.28 10:10鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が政治の実権を握ります。いわゆる「建武の新政」と呼ばれるものです。摂政・関白を廃止して、後醍醐天皇が政治の主導権をとりました。中央には「記録所」「雑訴決断所」「恩賞方」「武者所」などを設置し、地方支配においては「守護と国司を併置」しました。鎌倉幕府を倒す...
19 後醍醐~光厳2019.05.28 10:08鎌倉幕府が滅亡します。新たな時代、室町幕府の幕開けとなるわけですが、そこで活躍したのが足利尊氏、楠木正成、新田義貞でした。しかし、鎌倉幕府滅亡後すぐに室町幕府が始まったわけでなく、20ページになりますが、その間の3年間は「建武の親政」と呼ばれる、後醍醐天皇が実権を握った期間が存在...
18 後宇多~後醍醐2019.05.28 10:051274年の文永の役と1281年の弘安の役は、年号内容共に出題頻度高く必ず覚えておくこと。この蒙古襲来によって鎌倉幕府は傾いていく。それは御家人のとの関係が崩れてしまったからなのだが、その理由は自分で詳しく調べてほしい。その中で出されたのが「永仁の徳政令」。しかし、それでも鎌倉幕...
17 後嵯峨~後宇多2019.05.28 10:02この頃は北条氏の天下と言える。摂家将軍を迎えて「お飾り」とし、北条氏が幕府を完全に支配していた。3代執権から7代執権政村までは北条氏の支配で幕府は安定していたが、8代時宗の時から暗雲が立ち込め始める。それは鎌倉幕府滅亡の間接的な原因となるモンゴルが大陸で台頭し、日本にも使者を送っ...
16 土御門~順徳2019.05.28 09:59北条時政が政所別当となり、続く2代執権義時も政所別当となり、さらに政所別当と侍所別当を兼ね、政治と軍事の実権を北条氏が着々と握っていく。源氏も形骸化し、有力豪族である畠山氏や和田氏も滅ぼし、とうとう源氏の正統は3代で断絶する。その源氏を追い込む大きな事件が、頼家の子公暁が義時にそ...
15 後鳥羽~土御門2019.05.28 09:56源頼朝は1192年に征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開くが、その前から少しづつ準備を進めていた。それが各役所の設置である。どの役所も、その目的と役割、中心人物などは出題も多いので必ず覚えておきたい。また、支配の確立の為に、次々と有力豪族を滅ぼしている。梶原氏や比企氏などが初めに滅ぼさ...
14 高倉~安徳2019.05.28 09:54しかし、やがて後白河上皇と平清盛は対立。そんな中、1177年、鹿ケ谷事件が起きます。鹿ケ谷事件は、院の近臣らが京都東山鹿ケ谷の俊寛の山荘で、平氏打倒計画を立てて露顕し、一味が処罰された事件です。そして1179年、清盛が後白河上皇を幽閉します。ここから「源平の争乱(源平合戦)」がス...